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◆ラオス小学校建設隊

(第4次隊集合写真)
ラオス人民民主共和国 
首都:ヴィエンチャン
人口:497.4万人 人種:ラオ族 
言語:ラオス語 宗教:仏教
略史:
1353年、ランサーン王国として統一。
1899年フランスのインドシナ連邦に編入。
1953年10月22日完全独立。
インドシナ情勢急変に伴って、
1975年ラオス人民民主共和国成立。

(メコン川に沈む夕日)

 93年〜99年まで、ラオス国内8カ所の村に、9校の小学校建設を131名の学生達が行いました。
 ラオスは、タイ、ベトナム、ミャンマーなどに国境を接する国で、革命後25年を迎えた社会主義国です。長い内戦とベトナム戦争に巻き込まれ、今も戦争の傷跡があちこちに残っています。2001年現在のラオス人民民主共和国は、推定人口500万人・GNPは推定320ドル・非識字率が約42.4%、人口の90%が南方上座部仏教徒です。


〈第2次隊のソックニャイ村
での建設風景〉
 当時、東北タイで移動図書館や乳癌の初期検診などで実績のあるBAC仏教救援センター(本部静岡)の全面的な協力を得て、ラオスの小学校建設計画はスタートしました。電気もガスも水道もない村に、小学校を建てる。日中は30度を超し、言葉の壁や生活習慣に戸惑いながら自分たちの思いを伝えようと奮戦しました。当時ラオスの情報は、外務省にもほとんどなく、BACが唯一の情報源でした。現政府勢力は首都ビエンチャンから35キロ圏内で、その他の地区は反政府勢力(反政府ゲリラ)の勢力下であるということでした。安全に対して、空気や水のように思っている私たちにとって、現政府の管轄が首都を中心にして35キロしかないことに驚くとともに、反政府ゲリラは、我々と同じ自由主義のために戦っているという現実に、遠い昔のように思っていた戦争を身近に感じることとなりました。

■出発までに
 伝染病としては、マラリア・デング熱・肝炎・赤痢・コレラ・狂犬病・破傷風などがあり、病気に関する対応は、慶応大学医学部の寄生虫関係を研究している竹内教授にご指導いただきました。マラリアは蚊を媒介とした伝染病で100種類以上あるそうで、特に亜熱帯地区に生息する亜熱帯マラリアは、アフリカ・アマゾン地域を中心に年間200万人の命を奪っているそうです。マラリアの完全な予防薬はなく、私たちは治療薬を出発2週間前から服用し、現地でも飲み続け、帰国後も2週間飲みつづけました。何かがあった場合は早急に帰国し、竹内教授に受け入れてもらうことになりました。
 ラオスのプロジェクトは、村人と学生そして地元建設業者との共同作業で行い、日本の機材はできるだけ持ち込まないことを、最大のポイントにしました。当時の日本のODAで途上国に様々なものを建設・寄贈していますが、現地の事情を考慮せずに行ったため、野ざらしになっているものもあると聞いています。
 出発までにBACの伊藤理事長には、ラオスに何回もいっていただきラオス教育省や地元建設業者との調整をお願いし、場所の設定や完成後の教師の派遣についてもご努力いただきました。
 最初に建てた小学校は、国士舘大学同窓会の支援により、鉄筋平屋建て、トタン葺きの2教室で、日本円で150万円で建設しました。以後毎年建設に出かけ8つの地区に9校の小学校建設に携わり、現在も子供達が元気に通っています。
 93年の第一次建設隊は、何もかもが初めてのことなので、参加者を募集した際、面接を行い選抜しました。参加した学生隊員の隊長は、ラオスに行く1年前に中国のタクラマカン砂漠を「らくだ」で3ヶ月かけて走破した学生。それから、カトリックの団体に所属して、ネパールに2回小学校建設に参加した学生、初等教育専攻の女子学生や、空手部の女子学生など、合計13名を選抜しました。学生たちは、ラオスの子供たちに日本の音楽を指導するために、小・中学校を周り、ピアニカ・カスタネット・リコーダーなどを集め、またラオス大使館にでかけてラオス語の研究なども行いながら、ラオスに関する勉強会を重ねました。

文化の違いか?
 コレラ・A型肝炎・破傷風の予防接種を行い、計画がスタートして6ヶ月目の93年3月1日成田空港を出発しました。バンコクから夜行寝台列車でタイの国境ノンカイへ。船でメコン川を渡りいよいよラオスに入国というときに、入国・通関審査の軍人が、日本からもってきた楽器を没収するといいだし、それがいやなら日本円で一人1000円出せというのでした。ラオスの国家公務員の月給が5000円の国でです。自動小銃を持った軍人とのやりとりで、30分以上交渉しましたが、らちがあかず結局全員で5000円を支払って入国しました。翌年、入国する際、BACの理事長がラオスの副大統領のサインをもらって、それをみせたところまったくのフリーパスでしたが、軍人の一人が「おまえ、このサインを貰うのにいくらつかった」と言うのでした。我々の考える常識が、常識ではないことを痛感しました。
 第一次隊の建設現場は、首都ビエンチャンから30キロのシーサワット村で、その後の2次隊・3次隊も、ビエンチャンの民宿をベースに、バスで通える範囲の現場で建設を行いました。95年の第4次隊だけは40名の学生と共に、首都ビエンチャンから空路で約1時間飛び、ベトナムの国境に近いフォンサバンでの建設でした。ここは、20年前のベトナム戦争の傷跡が生々しく、ナパーム弾、それに枯葉剤により、いまだ樹木がなく、絨毯爆撃の跡が残り、不発弾・地雷による被害 がいまだたえない場所でした。ここでは、2つの村に小学校の建設を行ないながら、最終日にすべて手作りで運動会を計画し実行しました。運動会そのものを子供たちに教えるため、学生がヨーイドンで走り、1番になったものを褒め称えることから教え、徒競走・障害物競走、フォークダンス、そして日本から持ち込んだ楽器で、音楽指導した子供たちによる演奏、そしてリレー競走と本当に子供たちも村人も楽しんでいました。最後に行った村対抗の玉入れ競争で事件は起こりました。結果発表のとき、日本と同じように籠に入った玉をみんなで数えていると、早く玉がなくなった村の子供が、周りに散らばっている玉を相手側に投げ込んだことから、500人近い子供たちが大乱闘となってしまいました。40人の学生が必死になってとめ、何とかおさまりましたが、競争原理を持ち込むことの難しさを痛感しました。


(ツクツク)

(ラオスの食事)
■ラオスという国
 ラオスの朝は、お坊さんの托鉢からおだやかに始まります。お坊さんの長い列が、一軒一軒の家々を廻りお経を唱えながらほどこしを受ける。貧しい生活を送っている人たちが、お金や食べ物をお供えする光景は尊厳さに満ち溢れていました
 我々も、早朝、マーケットに「ツクツク」という、タクシーに乗って買い出しにいきます。ツクツクは、言ってみればバイクに派手なリヤカーがついている乗り物です。朝の市場はどこでもそうですが活気があります。新鮮な野菜やおろし立ての肉や魚類が所狭しと並べられています。ちなみに、お昼頃に
マーケットに行くと、板の上に真っ黒い物体が置いてあり、何かと思って近づくと、店のおばさんがその板を叩きます。そうするとその黒い物体が一斉に宙に舞う。蠅が肉にたかっているのです。第4次隊が行ったフォンサバンでは、イタチの肉を使って料理をし、イタチ丼やイタチ汁にして食べましたが結構いけました。ラオスは、フランスの植民地時代が長く続き、その名残として首都ビエンチャンの中央に凱旋門があります。当時のラオスで最も高い建造物でした。また食文化はフランスパンもありますが、基本的にはタイ料理と似ており箸とスプーンで食べます。

■活動開始
 朝食の後、教育省の方とバスで現地に向かいました。村長の出迎えを受け、遠まきに村人と子供たちが見ているなか、地元の建設業者と学生が作業を始めました。道具は、スコップとバケツがメイン。作業が始まり、すぐに、作業員と学生が仲良くなりました。ラオス語しか通じないボディーランゲージの世界で、お互いにほんとうに楽しそうに作業を進めて行きました。そのうち子供たちが手伝いだし、互いの名前を呼び合い、笑い声が絶えない状態となりました。女子学生は、日本から持ってきた楽器を演奏し、子供たちを誘います。子供たちに囲まれながら、年齢の高い子供にピアニカを教え、小さい子供にはカスタネット・すずを持たせ、最終日の演奏会に備えていました。4次隊の村でのことですが、7〜8才の女の子が、村の子供や大人たちから、殴られ、「あっちにいけ」と、仲間はずれになっていました。彼女は私たちの手を握り離そうとしないのです。ラオス教育省の方に、事情を聞いてもらったところ、彼女は「てんかん」もちで、ここではうつる病気としてみんなから、恐れられていたのです。私たちは教育省の方を通じて、てんかんはうつらない病気だということを説明し、彼女といつも一緒に過ごしましたが、その後どうなったかが心配です。


小学校設計図
■ラオスの宴
 夕刻、メコン川に沈む夕日を見ながら飲む、生ぬるいビールの味は忘れることのできない思い出となりました。1日がゆっくりと始まり、ゆっくりと終わっていく。何もかも、すべてを忘れてじっと夕日を眺めている。ヨーロッパからの観光客が大きなザックを背負って、メコンに沈む夕日を眺めていました。忙しく働く日本人にこそ、こういう時間が必要なのではないかとつくづく思いました。
 その後、我々の活動がラオスの新聞にでたこともあって、地元の高校生が授業が終わると作業に参加し、毎日お祭り騒ぎとなりました。日中の温度が30度を超える中、学生たちはよく働きよく子供たちと遊びました。             
 迎えた最終日、子供たちによる演奏会の演奏は、村人もラオス教育省の方もそして我々も、感動したすばらしい演奏でした。全くの手探りの中、ラオス語で「しずかに」「順番に」を連呼していた学生が、ここまでできるとは考えてもいませんでした。村人がお礼にと、牛一頭をさばいて、もてなしてくれました。その後バッシーセレモニー(ラオスや東北タイでのお祝い事の儀式)を開いてくれました。木綿の糸で作った祭壇を我々と村人が囲み、お坊さんが祈りを捧げたのち、村人一人一人が祈りを捧げながら手首に木綿の糸を巻いてくれました。村人は「また会えますように」と、また「無事に日本に帰れますように」と祈りをこめながら糸を巻いてくれました。村人と学生が抱き合って涙する光景をみて、ここにきて良かったことを確信しました。

(バッシーセレモニー)

★94年第2次隊に参加した新川 永悟君の日記に、最終日のことがこう綴られていました・・・。★
「僕は、ノームさんを探した。必死だった。やがて彼が人混みをかき分け、目に涙をいっぱいに浮かべ、僕の前に現れた。僕の名前を呼びながら。 涙が突然あふれた。嬉しかった。悲しかった。彼は泣くなといった。その優しさが堪えられなかった。この村で過ごした日々が、夢が、一幕を降ろそうとしていた。その後のことは覚えていない。すばらし過ぎる一日が、終わりを告げようとしていた。」

〔所感〕 第7次建設隊 国士舘大学卒 関根 一代
 道路を横切る牛の親子、親子5人が乗って走るバイク、タラートのある独特の香り、村人たちの素敵な笑顔・・・。たかが2週間、されど2週間、私はラオスで大変貴重な体験をさせてもらった。出発前はいったいどうなるか予想もつかず、不安と期待でいっぱいだったが、実際生活してみると想像していた程不便でもなく、日本の田舎の様なのんびりとした村で、暑さを除けば過ごし易いものだった。私はこの村でよく飲み、よく食べ、そしてよく笑い、よく踊り、よく歌った。肩や背中のみならず顔まで筋肉痛になる毎日であった。村人達は皆、私たちを温かく迎えてくれた。その時、人種や言葉は違うけれど心は同じだった。
 私たちは“ボランティア活動”でラオスへ行ったのだが、私たちが彼らに“ボランティア”してもらったのではないかと思う。私はラオスの村から、そしてそこに住む人々から、自然から、たくさんの宝をもらったからだ。唯物的になっている日本では忘れ去られてしまった多くのものがここにはあったのだ。この村では、日々の暮らしでは気付きにくい、物や名誉なんかよりももっと大切な「心」とか「優しさ」といった、見えないものに数多く触れることができた。そして、子供たちも生き生きとし、光っていた。
 物質的なものにしか満たされていない今の日本で、次に求められるのはこの村で触れることのできたような精神的な豊かさではないか。私達が彼らに“ボランティア”できたかどうかは分からないが、私はほんの一部だがラオスの過去、現在を知ることができた。この“知る”という事も立派な“ボランティア”かもしれない。多くの人が“知る”ことによって奉仕の心が芽生え、人々の調和が取れ、大きな力になってゆくだろう。
 今だラオスは復興の途上である。これからラオスを発展させてゆくのは今の子供たちであるし、これからの日本の未来を築くのも私たちである。私達と一緒にアブラハムを歌い、ピアニカを演奏した子供たちが未来を背負っていくのだと思うと胸が熱くなって来る。彼らと何十年後かにまた会って同じ時間を共有する事が出来たら幸せだろう。その時に、「ラオスに来て良かった。」「ラオスも、日本も、世界中素晴らしい。」といえるような世の中であることを期待したい。

 現在、ラオスに行った学生は本年で131名となりました。
彼らは、ラオスのすばらしい友人との思い出を胸に社会に巣立っていきましたが、
毎年積み立てを行い、近い将来自分たちの建てた小学校の修理やペンキ塗りに行くことなどを計画しています。


(完成した小学校)




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